残したいこと(伝えたいこと)

・合気道開祖・植芝盛平(大)先生は、何を残したかったのか? 何を伝えたかったのか? 何を求めたかったのか?


・大先生は、究極的な人の幸せとは何かを求められた。 人の究極的な幸せとは、真人(まことびと)であった。 真人とは、人の完成を意味し、神の心と一緒になることであった。 人が神心と一緒になると言う事は神人合一であり、人が神の心を持ち、神の力を発揮すると言うことである。 合気道をすれば神技となり、大先生と闘えば、神の顕われである宇宙と争う事となった。
尚、人が裡なる処の魂を開き、分け御霊を通じて神の無限の愛のエネルギーを得て、神と同じ力を発揮できる様になることを岩戸開きと言い、悟りを開いたとも言う。


・人が神心と一緒になると言う事は、顕界・幽界・霊界・神界を真心(まことこころ:神心)で貫くと言うことになる。 神は無限の愛でもあるから、人と神は無限の愛で結ばれるとも言える。 そうなると、大先生が言われた処の、我即宇宙となり、我即愛ともなる。 人類全体がこの状態になれば、顕界(地上界)は地上天国となり、三界(顕界・(幽界・霊界)・神界)は真心(愛)で貫かれることとなる、この状態を大先生は、三千世界一度に開く梅の花と言われた。 つまり、大先生は合気道と言う武道を通じて、人の完成を求められ、地上天国構築を通じて、人類(世界)の平和を求められたのである。 従って合気道には、人と人が競い合う試合が無い、自分の我欲に打ち克つ処の吾勝(あがつ)あるのみである。 大先生は吾勝と一言で現されたが、それが出来れば、実は神心になれるのである。


・地上天国とは如何なるものであろうか? それは、鉱物、植物、動物、人類の調和である。 個として存在するもの全てがお互いを尊重し調和を保ち、その中で成長し、最後に神と一体になることが、生成化育である。 また、この生成化育は『合気とは神の御姿御心より出で真善美なる無限絶対の世界御創造、御経綸の精神なり』と同じことを言っている。 つまり、神が生んだ顕界(地上界)の全ての存在物(個)は、互いの存在を尊重し、個の調和を保ち、成長して行くことが求められているのである。


・合気道を通じて真人になるには、どのようにすれば良いのであろうか? まず人は、外を見るのでなく、外に求めるのでなく、外に強制されるのでなく、自ら自分の裡なる世界を見て、求めて、自らの力で真心(神心)に近づき、遂には、神心に到達することが求められる。 日常生活に追われ、外の世界で優劣を競う人間社会で生きて行かなければならない環境下で自分の内側を観て、心を変え、行いに結ぶことは容易ではない。 大先生は、具体的にどのようにすれば、人が真人に近づけれると考えられたのであろうか?


・人が行動するには、まず、ある行動をしたいと思う心が必要である。 その心が一時的なものであれば、当然ながら行動も一時的なものになる。 その心が人に良く見てもらいたいという心であれば、その行動は装う行動となる。 思う心は、自己中心的な心から離れ、自分の我欲に打ち勝ち、自分を含めた全ての人が調和の中で幸せを永久に感じられることが必要である。 自分さえ良ければ良い言う我欲から離れて、真心の自分を愛し、人を愛し、世の調和と平和を愛し、自分も含めた人々の幸せを愛することを、自然に感じられるようになることが必要である。


・では、日常生活で淀み疲れた心を、澄み切った溢れる様な気で満たすには、どの様にすれば良いのであろうか? まずは、正しい想いを持ち、その想いを巡らせ、自分の裡なる世界を観て、真理を求める心が必要がある。 その為に大先生は、道場で多くを語られ、貴重な言葉を多く残され、『真人養成の道』の必要性を説かれた。 正しい想いと言うものは、人から与えられるものでは無いし、人に強制されるものでもない。 自ら必要性を感じ、自ら求めるものである。 個が欲するもの、つまり、我欲があると、人の完成とは逆の心を生み出す、恐れ、嫌悪、ねたみ、嫉み、優越感、プライド、地位欲、名誉欲等の闇の心を生み出す。  我欲から離れないと、正しい想いは見つからない。 神様に知られても恥ずかしくない心、神様に通じる心、それは真(まこと)一筋の澄み切った心である。


・澄み切った心を育てる為には行動も必要である。 日常生活の行動も、稽古も必要である。 日常生活に於いては、自分の損得(利害)で行動しないことである。 何を成すにしても、自分で想いを巡らせ、自分で決め、あるべき姿を求め、一生懸命に集中して行うことである。 そうすれば、どんなことでも、喜びが生じ、元気になり、今日の事が明日に繋がり、成長が積み重なって行く。 稽古に於いては、体術は武産合気、武器技は合気剣、合気杖をすることが大切である。 指導者は過去に於いて自分が習った技の中で得意なものばかりするのではなく、開祖大先生の技を研鑽し、幅広く稽古をすべきである。 体術に於いては、剣の理合い、体術の理合いを意識し、固い稽古と柔らかい(気の流れ)稽古、太刀を利用した稽古を充分にすべきである。 また、合気剣、合気杖の稽古も継続して行うべきである。 


・以上の様な日常生活や稽古を継続して行くことにより
  ①心身は禊がれ、
  ②受け取る力が養われ、
  ③裡なる世界の大事さに気付き、
  ④想いを巡らせ、
  ⑤真の心が養われ、
  ⑥自分も含めた幸せをもたらす行動が出来る
ようになり、生涯現役の生活を過ごせるようになる。 生涯求め続け、生涯修行が出来る幸せは、他にはない。 人は生涯誰にも迷惑をかけず世話にならず、死ぬまで元気に過ごしたいと言う。 だが、ただ願うだけでは、老いには勝てない。 人が生涯活き活きと過ごすには目標、目的が必要である。 大先生が残された、真人(まことびと)を求めて行けば、悟りを開くまで、生涯を現役で過ごせる。 何故なら現役でないと求め続けることが出来ないからである。


・開祖大先生は、武器技も含めた武産合気や稽古生の心の在り方(教え・多くの言葉)を通じて、多くの真人を養成し、その真人を核に家族の調和、地域、国家、世界の調和と平和を求められた。
わたしは、生涯大先生が求め、伝えようとされた合気道(武産合気)と心の在り方を求め、研鑽し、縁ある人に伝えて行きたいと思います。 縁ある人は、また、次の縁ある人に伝えて行って欲しい。

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